ああそういえば、委員会の仕事はまだ残っていたのだと留三郎が川へと戻っていったのは既に夕刻であった。
同じように、文次郎も帳簿の計算をしに委員会室へと向かっていたので今頃は十キロそろばんをはじいていることだろう。
水没したアヒルさんボートを川に入って引き上げる。流れの速い川であったが幸いにして流されることなく水底に横たわっていたそれをどうにかこうにか引き上げながら、あちこちと痛んだ船体を痛ましげに見た。
実際のところ修繕用の予算が足りないのも事実である。しばし思案して、そう言えば今日世話になった海賊を思い浮かべた。彼らはある意味船のプロだ。今度上手い修繕の仕方を教わりに行ってみようかと思いつく。その時には文次郎も誘ってやろうかと考えた時に、今までなんとか持ちこたえていた空模様が限界を訴え始めた。先程から雲が低く垂れ込めていたが、とうとう降り出したようだ。少々歩み寄りを見せたかと思えばこれか、と留三郎は苦笑してしまった。
季節柄あまり寒さは気にならないが今日は随分長いこと水に漬かっていたし、何よりもいくらボートとはいえ傷んだ用具をあまり雨ざらしにしておく気にもなれない。
留三郎は急いでボートの回収作業を進めるのだった。
回収したボート運んで学園に戻ってきた頃にはすでに雨は本降りになっていた。
濡れたボートを倉庫にしまう訳にも行かず雨に濡れない場所へと片付けていると、背後からあわてた様な足音がして、傘が差しかけられる。

「先輩!言ってくださりゃ、俺も手伝ったのに!」

振り返れば三年生の富松作兵衛が傘を手に持ち立ってる。どうやら通りがかって留三郎の姿を見つけたらしい。

「あー、いや。夕方だったし…雨が降ってくるとは思わなくてな。すまんな作。ありがとう。もう戻る所だし、お前も濡れるぞ」

「俺はいいですから!!先輩傘入ってください!」

あまりの剣幕にこれは断る方が難しそうだと諦めて 大人しく作兵衛の傘の中に入る。さすがに身長差が辛いのを少し悔しそうな顔をした作兵衛から傘を奪い取った。

「傘はお前のだろ。助かったよ。せめてもの礼にこれくらいはさせてくれ」

身長差の事には触れずさらりとそんな風に言う。
ずるいなあと作兵衛はそっと口を尖らせるが、それ以上は何も言わずに隣を歩いた。自分優先で傘を差しているのは分かったから、できるだけ相手も濡れないように引っ付かなければならない。遠慮しようにもできないジレンマに陥って、もう一度だけずるい…と心の中でため息をつくのであった。
やがて、長屋の前にたどり着き、作兵衛の傘は持ち主の元へ返される。

「すまなかったな。ありがとう」

にこりと笑って、踵を返した留三郎を見送った作兵衛の肩は僅かに濡れていた。濡れてしまった肩の分だけが己の踏み込めなかった距離だと作兵衛はもう一度深いため息を吐いて自室へと戻っていった。
作兵衛と別れ、留三郎は自室へと足早に向かった。元々川底から引き上げる作業をしていた所に降って来た雨、作兵衛の傘に入れてもらうまでにすでにずぶぬれだった。どうせ濡れているのだから同じ事で、却って作兵衛が雨に打たれてしまったなあと申し訳なく思う。
そんな事をつらつらと考えながら歩いていたら、廊下の向こうから、物凄い喧騒が聞こえてきた。またいつもの事かと辟易したため息を漏らす。何せその喧騒は医務室の方から聞こえてきたし、その声はどう聞いても己の級友のものだったからだ。
今度伊作を怒らせたのはどこの馬鹿だと思っていれば、言い返す声はどうやら今日共に川を流された文次郎のようだがその声は随分としわがれている。おまけに時折咳き込むような音まで聞こえてきたから、おやと思ってつい足を延ばしたのも無理はない。
行き先を変えてたどり着いた先の扉を開けた途端飛び込んできたのは伊作の罵詈雑言。この男は外見を裏切って普段から中々に容赦のない物言いをするが、頭に血が上っている時は特に酷い。
その口撃を一身に受けているのが文次郎であるのだが。

「あ!留さん、ちょっと聞いてよこの馬鹿!」

「あー、言わんでもいい。なんとなく分かった」

何せ伊作の前に座っている文次郎ときたら、鼻は垂れているわ、鼻の頭も真っ赤になっているわ、時折酷く咳き込むわ、挙句その声は学園長もかくやというほどしわがれているわ、これ以上ない位の見事な風邪の症状見本市状態であるのだ。
大方、そんな状態にもかかわらず自主鍛錬を強行したとか、委員会活動で風邪菌を撒き散らしたとか、あげくこの雨の中で後輩達にも鍛錬を強要したとか、あるいはその全てなのだろう。
制止してもまだぶちぶちと垂れている伊作の文句から察するにそれは殆ど間違ってはいないようだ。あまりにもらしすぎる行動に笑っていいやら呆れていいやら判断に困る。尤も伊作にしてみれば笑い事ではないのだが。

「この位、風邪のうちにもならん!これしきでサボってたまるか!」

風邪ひきの割には確かに元気な事だ。くしゃみをしながら、咳き込みながら、それでも暑苦しさは変わらない辺りはいっそ感心する。

「あーもうヤダヤダ。文次郎っていっつもこれだもの。鼻や喉に来る割には、それだけだから元気なんだよねー。ったく、いっそ高熱やらめまいやら起こしてぶっ倒れてくれれば楽なのにさ」

「…伊作、お前…」

「その発言はどうかと思うぞ」

さすがにどうなんだと言いたくなる伊作の言い草ではあったが、その昔足をくじいたにもかかわらずまったく意に介せず、つばをつけておけば治るなどと無茶苦茶な事を言っていけいけどんどんしようとした小平太を縄で簀巻きにした上で柱にくくりつけていたという前科があったのを思い出し留三郎は口をつぐんだ。
下手な事を言えば、本気で一服盛りかねない。
文次郎も同じ事を思ったのか、語尾をうやむやにして黙り込んでしまった。

「風邪ってのはね、耐えればどうなるもんでもないんだから。君の好きな言葉でいうなら自分で管理するんだよ!ちゃんと休んで治すのも管理!分かった?わかったらとっとと薬飲んで寝てきな!」

反論も赦さぬ勢いで怒涛のように押し寄せた説教をここはひとまず聞いておく。
そんな文次郎にご愁傷様だと苦笑して、まあせいぜい大事にするんだなと自分は引き返そうとしたところで、なぜか目の前に迫ったのは床だった。
伊作に足を引っ掛けられたのだと気が付いて、一体何をするんだと首を持ち上げようとする前に伊作から冷たい声が振ってきた。

「留…起き上がってごらん?」

言われなくとも即座に起き上がって文句をつけてやろうと、腕に力をこめる。
が、しかし。

「…あれ・・・?」

なぜか腕に力が入らずに一向に床からの距離は遠くなる事はない。それどころか目の前の床がぐらぐらと揺れだしたような気さえする。

「…あーもー、これだけ熱出ておいてなんで気が付かないのかなー。文次郎とは別の意味で困った人だよねー」

「…熱?」

まとまらない頭でやっと伊作が発した単語を反芻する。それを聞いてふうと盛大なため息をつかれてしまった。

「今までずっと動いてたでしょ。一旦糸が切れたからもう動けなくなっちゃったんだよ。まったくくしゃみや喉の痛みみたいな自覚症状がないからって気が付かないのも問題だよ」

そうか、熱が出てたのか。言われてやっと自覚をした途端物凄い勢いで床が回り出し、僅かに顔を上げていることもできずに撃沈する。
背後で文次郎が何やら勝ち誇って騒いでいるような気がするが知ったことではない。

「己の体調も自覚できんとはこのへたれめ!忍者たるもの自分の体を把握して…」

「自覚してるくせに慮らないお前が言うな!どっちもどっち!ほら!文次郎はとっとと部屋戻る!」

文次郎の台詞の途中で鈍い音がしたから、おそらく落とし紙の束でも投げつけられたのだろうけれども、はっきり言ってどうでもいいことだった。そのままひんやりとした医務室の床と仲良くしていたら、伊作の手が伸びてきて起こされる。その手つきが大分穏やかだったのは多少気を使ってくれているらしい。
そのまま、いつの間に用意されたのやら敷かれた布団に転がされた。

「はい、君は入院」

「あ?」

「部屋まで戻れなさそうだしね。ここで寝てていいよ」

「…悪い」

「そう思ってるなら、大人しく寝てとっとと治す事」

「ん」

「まったくもー、大方の事情は聞いたから、君の風邪の原因も分かるけど…」

おそらく文次郎とともに川に落ちて海まで流された事を言っているのだろうけれども、後出しをして余計怒られるのは面倒だったので、その後再び川に戻って沈んだボートを回収していた事と、その時に雨が降ってきてそのまま学園まで戻ってきたことを付け足しておいた。
心底呆れたような顔と、馬鹿、という言葉が降って来たが言い返す気力もなくそもそも正論すぎたので黙って目を閉じる。

「寝る前に熱さましのんでね」

「ああ…」

沈みそうになる意識をかろうじて引き止めて、ゆっくりと体を起こして渡された薬を口に含んだ。
相変わらずわざと酷い味にしてるんじゃないだろうかと言う程の苦味をなんとかやり過ごして、続いて手渡されたおそらく医務室備品であろう夜着に着替える。
ああ、そういえば熱なんか出してしまったら作兵衛が気に病むかもしれないなと思い当たって、明日までには絶対に治そうと改めて決意をして大人しく布団にもぐりこもうとした時に、扉の向こうから一際盛大なくしゃみが聞こえていた。

「文次郎?あれほど大人しくしてろって言ったのに…」

すぐさま扉を開いた伊作が叱り付けようとするのを遮って、珍しく文次郎が眉根を下げて口を開く。

「…仙蔵に追い出された」

その言葉に、伊作も続く文句を飲み込んでしまう。確かに仙蔵の気持ちも分かる。同室のものがくしゃみや咳を撒き散らし、その上大人しくしているでもないとくれば追い出したくもなるだろう。
けれども、一応その心情より保健委員である事を優先させて。

「…ご愁傷様。仕方ないね。君も医務室で一晩寝てていいよ」

そう言って文次郎を招きいれたのだった。

「悪いな」

「ま…どうせ大人しくなんてしてない君を見張れると思えばいいか」

「ひでえ言い草だな、っっくしょ!」

「ああもう…。留も寝てるんだから大人しくね」

留三郎の方は大人しく寝ているからまさか喧嘩などしはしないだろうけれども一応の釘は刺しておく。

「分かってるよ」

ばつが悪そうに応えた文次郎も大人しく用意された布団に転がった。

「じゃ、僕は一応新野先生に届け出してくるから、大人しく寝ててね」

ついでに留三郎の熱さまし用の水も汲んでくるかと、桶をもって伊作は医務室を後にした。
しんとした医務室で隣から留三郎の寝息が聞こえてくる。文次郎と違い表にでる症状はなくとも確実に具合は悪いようだ。伊作との短い会話の間に寝入ってしまったらしい。
文次郎の方はむしろ咳や鼻の不快感が邪魔をしてすぐには寝入る事はできないので、天井を見つめたまま、隣の呼吸音を聞くとは無しに聞いていた。

「…もんじろー」

「…?なんだ。おきたのか?」

不意に隣から幾分ぼうっとした声が掛けられる。もしかして咳やら鼻をすする音やらで起こしてしまっただろうかと思って視線を横にむければ、目は閉じたままで留三郎がだるそうに口を開いていた。

「お互い、ざまぁねえな…」

やはり目は閉じたまま、だるそうに紡がれた言葉。口の端は自嘲気味にゆがんでいる。

「ああ、そうだな」

どうせ川に落ちたのが原因だ、どう考えても自分達の自業自得である。
分かりやすく風邪の諸症状を訴える文次郎と熱を出した留三郎、どちらにせよ己を恥じ入るばかりだ。

「ふん…お前よりも先に回復してやるさ、馬鹿文次郎」

「なんだとう!げほっ!へっ起き上がれもしねえ癖に」

「鼻垂らしながらガラガラ声でわめくな」

「けっ、俺の方が回復は早いからな!」

伊作が聞いていたら、何もこんな事まで張り合わなくてもというかいっそもっと張り合ってとっとと回復しやがれ馬鹿たれ共が、と思うような馬鹿馬鹿しい張り合いをして。
喋りつかれたのか留三郎は少し押し黙った。ふぅと吐き出された呼吸が寝入った訳ではない事を教えるが、相変わらず閉じられたままの目で普段のキツイ視線が隠れているとまったく印象が違う。
そんな留三郎の顔を、相手が目を閉じているのをいい事につい凝視してしまっていた文次郎であったが、再びゆっくりと口を開いた留三郎の言葉に耳を澄ました。

「…治ったら…」

「あ?」

もう半分夢の中に入りつつあるらしい。先ほど以上に小さくかすれたような声で紡がれるそれはたどたどしい。
半分寝言のようにつらつらと語られたのは。
おそらくボートの回収作業でもしながら考えていた事なのだろう、昼間出会った水軍にボートの修繕を習いたいというような事。
相変わらずな向上心は非常に共感できるし良いものだとは思うのだが、方向性が何故忍術としての鍛錬ではく修補の方へ行くのだろうかこの男は。
少しだけのどの奥がイガイガするのは、きっと風邪の所為だ。

「…良かったら、文次郎も一緒に…」

「え?…っゲホッ」

続いた言葉に思わず痛む喉も忘れて大きな声を上げて咳き込んでしまう。中々止まらぬそれをどうにかこうにか押しとどめもう一度留三郎に視線を戻せば…今度こそ本当に眠りの底へと沈んで言ったらしい。深く長い呼吸がその証拠だ。
結局今の言葉はただの寝言だったのか、それとも半分寝ながらも文次郎へ語りかけていたものだったのかは分からなかったが。
それでも、留三郎がそんな事を考えていた事だけは文次郎にも伝わってしまった。
水軍の面々にもう一度会いたいのは正直なところだ。そして、船大工を教わるという大義名分を持つ留三郎がうらやましいと一瞬思ったことも事実。
けれどもまさか、それに共に行くかと誘われるとは思わなかった。勿論異存など在ろうはずもない。
あとの問題は、果たして留三郎自身が、それを文次郎に告げた事を覚えているかどうかだが。

「…正直、悪かねえな」

再び水軍の元を訪れる事も、それが留三郎と共にであることも。
ならば、さっさとこの風邪を治してしまおう。何、いつものとおり二人で張り合えばこんな風邪などすぐに治るだろうお互いに。
しんとした空気の中で、留三郎の立てる寝息が静かな音を立てる。そして、水が揺れる音を僅かにさせて、近づいてくる伊作の気配。漸く戻ってきたらしい。大人しく寝ているのを見れば満足するだろう。
またうるさい説教を食らうのはごめんだと低い咳払いを一つして、文次郎は布団を深くかぶった。
すらりと扉を開けて伊作の入ってくる気配がする。
文次郎は何も言わず布団をかぶったままだったし、伊作も何も声はかけなかった。
桶を置いた音と水音が聞こえたから、きっと留三郎の額でも冷やしているのだろう。程なくして明かりを落として伊作が立ち上がるのが分かった。

「…じゃあ僕も隣で泊まってるから。何かあったら声かけてね」

文次郎が寝ては居ないのはばれていたらしく、小さな声をかけて伊作は隣の部屋へと姿を消した。
部屋には戻らず医務室で待機してくれるらしい。こちらも保健委員の鏡だなとかぶった布団の中で笑った。

 

そうして、やがて訪れた睡魔に抵抗する事はなく文次郎もまた眠りにつくのであった。


 

長い…。
書きたい部分にたどり着くまでが冗長すぎる癖を直したい。
これでも文留。(富松が出張るのは仕様という名の愛です)
お互いちょっと意識はしてるけどまだこうはっきりと口にだしてなくて、でもなんとなく…な微妙な関係位かな?

 
同じ風邪をもらっても
文次郎は鼻たらしながらギンギンと鍛錬をし(伊作に怒られ)
食満は見てくれは全く変化ないままに高熱だして(伊作に見破られて強制就寝)
みたいな気がするなあ…というのが発端。

この後夜中にちょっと更に熱が上がって一騒動…とかあったりしてもいいなあとか思ったんですが
収集つかなくなりそうなので、とりあえずこの話はここで〆。

あと伊作は怪我病気がからむとめちゃくちゃ男前(容赦なし)になる…の希望です。

で。この風邪に対する自覚症状は多分色恋沙汰への自覚とよく似てる‥‥(それが言いたいのか)