忍んでいる時を除き、普段は背筋を伸ばし凛と歩くこの男が、建物の壁際の地面にひっそりと顔を出したそれに気がついたのは何の偶然だったのか。
硬く踏みしめらた学園の土を割り、逞しく顔を覗かせていたのは名も無き野の草。
学園内に栽培されている草花と言えば、薬草園の薬にもなるが毒にもなる植物であったり、毒虫共の餌になる葉であったり、おおよそ純粋に愛でるものはない。どこからか風に乗ってきた種が硬い土の中で冬を越したものだろうか。
その素朴さと強さを認め、仙蔵は小さく笑うとそこを通り過ぎた。
それからは、何とはなしに通るたびについ目が行ってしまう。誰ぞに踏み潰されてはいまいか、見つけられて引っこ抜かれてはいまいか、はたまた無残にも掘り起こされて打ち捨てられているかもしれないと。
けれどもそれら全ては杞憂に終わった。元々が目に付きにくい箇所であり、壁すれすれのその場所を歩くものも、穴を掘る者も居なかった。
厳寒の季節も漸く過ぎ去ろうとしている頃、日差しが柔らかくなってきたとは言え、まだまだ冬の残り香は強い。
できればあまり外に居たくはないと思わせるに充分である。
尤も、そういう訳にもいかないのがこの学園ではあるのだが。
その頃には、名も無き草は随分と頭をもたげていて、その先に小さな硬い蕾を擁いていた。
この日も仙蔵はこの草を目の端にとめ、もうじき蕾が綻ぶのだろうななどと季節の移り変わりを実感していた。
そしてそのまま井戸へと向かえば、何やらそこで作業を一人進める影を見つける。
「何してるんだ?留三郎」
「あー?仙蔵か。ちょっとおばちゃんに頼まれ物だ」
にっと笑って掲げる手に持っているのは桶である。仙蔵にも見覚えのあるそれは食堂で使われているものだろう。
「水漏れしているらしいんだが、おばちゃん愛用だそうでな、新しいものに変えるよりは修理して使いたいんだと」
道具にこだわるのも料理人としての矜持だろう、そのおかげで毎日美味しい食事をとることができるのだ。恩恵にあずかる者としておばちゃんの頼みを聞かないわけには行くまい。
それにしても、道具にこだわるのが料理人であれば、その修理にこだわるのは流石用具委員長と言うべきか。
いくつかの言葉を交わす間にも止められる事のない作業は精巧を極めている。
幾度も幾度も新しい水を汲み、その中に木材を漬けては出しを繰り返していた。
仙蔵にはよく分からないその行程をなんとなく見ていると、ふと留三郎の手が真っ赤になっているのに気がついた。
まだ寒いこの季節、冷たい水にずっと手を漬けていれば当たり前だ。そんな状態で槌をふるったりして大丈夫なのだろうか。勿論技量を疑うつもりはないが、それでも心配になってしまうのは当然だと仙蔵は思っている。そうしてそれが口に出るのも仕方のないこと。
水は冷たいだろうと言う仙蔵に、留三郎は笑顔を向ける。
「そりゃまあな。でも…もう随分水がぬるんで来た。十日も前と比べれば雲泥の差だ」
春は近いなと、もう一度微笑んだ留三郎の顔に何故か、名も無き草の蕾が重なった。
「とは言え、冷たいものは冷たいだろう?」
すっと距離をつめて、作業していたために反応の遅れた留三郎の手を取った。
やはりその手は冷え切っていて、水の冷たさを仙蔵へと伝えてくる。
「おい…仙蔵…」
ぐっと手を引き抜こうとするのを、更に強く握る事で阻止し、もう片方の手も掴んだ。
左右共に冷えて赤くなっている。更に良く見れば小さな切り傷がそこかしこに見える。勿論この学園に居るからには傷の無い生活などは考えられないから、それは当然の事だ。
けれども、赤く染まった指先にあるその傷は普段見るよりも数倍痛々しい。古傷もかじかんだ手に浮き上がり色濃く見える。
そんな指先を暖めようとするかのように仙蔵は口元へと近づけた。
「お、おい…」
必死の抗議も無視して、引き寄せた指に小さく口付けを落とす。
ちらりと見れば予想通りに真っ赤にそまり口をパクパクと開けている留三郎の顔が見えた。
くすりと笑って手を放せば、ものすごい速さで引っ込める。そこまで含めて予想通りの反応に仙蔵の笑みはますます濃くなった。
「作業終わったら時間があるか?」
「え?あ?…あ、ああ…」
ひっくり返った声でなんとか返事をした留三郎に、仙蔵はもう一度微笑みかける。
「水なんぞで春を感じるな。他にも春の訪れの兆しはあるぞ。お前に見せてやる」
水に手を入れるより。もっと春を感じるあの蕾を、不意に留三郎へ見せてやりたくなった。
仙蔵がそれを伝えたとたんに、留三郎がふわりと笑う。
「それは、楽しみだ」
綺麗に綺麗に微笑んだその顔。
「ならば急いで作業を終えないとな」
そう言って再び下を向き作業に入るのを、仙蔵はぼんやりと見守った。
 
人が「微笑む」とは、花の蕾が「ほころぶ」から来ているのだ、などとどこの誰が言い出したのかも知れぬ戯言は、案外本当なのかもしれないと。
 
そんな詮無き事を考えながら。
 
 
 

甘い甘い仙食満