天の原ふりさけ見れば白真弓張りて懸けたり夜道は吉けむ

 

 

ぶるり、と身体に震えが走る。決して恐怖を感じたわけでもなければ血気盛んに武者震いの類でもない。
純粋に、寒さを感じ取っただけの事。
この寒さでは無理はない。火鉢はとうに火種は落としてある。墨を無駄には使えないのだ。
先まではほのかに残る暖をたよりに作業を進めてはいたのだが、そろそろ限界だろうか。
留三郎は、同室で同じく夜半まで作業を進めている伊作へとちらり視線を送った。
彼もまた寒さを感じているのだろうが、手を止める気配は一向にない。
尤も伊作の手元には焙がおかれ、何やら薬を煎じているようだから手元がかじかむという事はないのかもしれない。
酷い悪臭を放っているはずのそれにはすっかり鼻が慣れてしまっているのは、果たして喜ぶべき事なのか。
ともかくこの分では、いつものように一晩中続けるつもりだろう。
声をかけたところで、生返事しか返ってきまい。
少なくとも自分はもうこれ以上の作業は無理かと、立ち上がる。厠にでも行ってから床に着くかと伊作の邪魔をしないようにそっと部屋を出た。
寒いと思っていた室内も、外に比べればかなりマシであったようで、廊下に出た途端更に強い震えに襲われた。
それでも。
この季節特有の、きん、と張り詰めた空気の雰囲気は嫌いではない。
混じりけなど許さないような、凄烈なまでに澄んだ気配は文字通りに肌を刺す。
少し緩んでいた精神が喝を入れられたかの如く、ぴんと張り詰めたこの感じは心地が良い。
すう、と留三郎は息を一つ吸い込んで、その空気を体内にも招き入れた。
寒さにすくめていた肩をぴんと伸ばし、空を仰ぎ見れば、夜半に出てきたのであろう弓の月。
半分とはいえ、充分な明るさを持つ月の光は足元に影を落とした。
周囲を見回せば、普段なら暗闇に乗じて走り回っているはずの鍛錬馬鹿の姿も、身体を動かす事が大好きな輩の姿も見えはしない。どうやら月の出現と共に外で の自主連は切り上げたようだ。
月明かりの下では、忍には、なれない。
そう言った相手の姿を、ふいに思い出して。
もう一度、天の月を見上げた。
 
 
すとん、と。
中庭に影が落ちる。
明らかに不審なそれに留三郎は驚きもせずに、ゆっくりと視線を向けた。
驚くも何も、先程から忍者にあるまじき気配を垂れ流しながら近づいてきているのだ、驚きなどとうに静まって待ち構えていた。
「どうした、与四郎」
月の光を背負ってきた来訪者に、留三郎はふわりと笑った。
月に照らされたその顔に、与四郎がまた笑う。その顔には月の影が落ちている。
笑いながら与四郎はずるりと頭巾を頭からはいだ。
「今夜はもう閉店だ」
そう言ってゆっくりと留三郎へと近づいてくる。
頭巾を取ったとは言え、その下にはきっちりと忍装束を身に着けたまま。ここに来るまでに何かしらの事を終えてきたのだろう事は想像に難くない。
けれども、それを、敢えて問う事はしない。
月が明るく照らす今、忍としてでも風魔の者でもなく、唯の一人の人間としてここに立っている、それだけが真実だから。
留三郎は、与四郎が近づいてくるのをそのままで待ち受ける。
目の前にやってきて、一段高い所から彼を見下ろして、少し汚れたような彼の頭を少し払ってやった。
それから。
すとんと腰を下ろして、まるで月を背負う与四郎を見上げるような形になる。
口には出さないが、お前も座ったらどうだと目で促すが、与四郎はしばらくそんな留三郎を見下ろしたまま立ち尽くしていた。
「よし…」
再度、呼びかけた口はそのまま彼の名前を最後までつむぐ事はなく、ぽかんと開け放たれた。
つい、と腰をかがめた与四郎がその勢いのままに留三郎へと抱きついて肩に手をまわし首筋に顔をうずめてきたのだ。
 
「天の原ふりさけ見れば白真弓張りて懸けたり夜道は吉けむ」
 
そして、そっと耳に吹き込むようにつむがれた言の葉。
耳から入った音が、その意味する事を留三郎の意識の中に伝えた途端、抱きつかれたまま留三郎は肩を揺らして噴出した。
「お前、何を言ってるんだ」
彼が詠んだのは、恋の歌。
 
恋しい者の元へと夜道を歩く男が、暗い道に不安を覚えるが、天を仰げば明るく照らす弓の月。これで夜道は安全だ。そしてこの恋路も月明かりに照らされた如 く、良いものになるだろう。
 
余りにも意外すぎて未だに肩を震わせて笑い続ける留三郎に、与四郎が眉を寄せた情けない顔をあげる。
「オメー、ちっと笑いすぎでねーか?」
「あー、すまんすまん。余りにも出来すぎで笑ってしまった。しかしお前がそんな歌を知っていたとは意外だな」
「あ、馬鹿にしてっなー。そんくれー、しってらーよ」
「それもそうだな。すまん」
ひとしきり馬鹿みたいな会話をして、和やかな雰囲気が出来上がる。
その間もずっとしがみついたままの与四郎に、少し離れろとの意味を込めて軽く押し返すが、一向に離れようとする気配はない。
「おい与四郎。いつまでしがみついてるんだ。いい加減離れろ」
「やーだよ」
「お前な」
「いーじゃん、寒みーし。おめーだって身体冷え切ってんじゃんよ」
どうあっても離れる気はないらしい。留三郎はため息をついて、それ以上押し返すのをやめた。
実際に彼の言うとおり。彼の身体がくっついている部分は酷く温かくて心地がいい。この温もりは離れてしまうのは少々惜しいのは確かだ。
留三郎はもう少し温かくなるために、己の腕を持ち上げて与四郎の背中へとまわす。
ぽんぽんと背中を数回軽く叩けば。
それは、まるで幼子を落ち着かせるような仕草ではあったが、与四郎の腕にはきゅっと力が込められた。
座ったまま身動きも取れぬ留三郎は、与四郎の背中越しに昇る月を仰ぎ見る。
その月明かりは煌々と周囲を照らし、夜の闇を打ち払っていた。
先程与四郎が紡いだ歌を思い出し、確かにこの道は吉となるかも知れないなと、月の下だけの夜迷い事を今だけは信じようと、そう思う。
 
月の光が静かに、二人の胸の内までを照らして夜は更けていく。
 
 
 
 

どの辺が年末年始SSなのかさっぱりですが。実は2010年1月1日の夜、初日の出の前にほんの僅かな欠け方ですが部分月食が起きるんです。そんな訳で年 越し→、みたいなイメージが今年私の頭にできてしまいまして。月→よしけま、だろーと暴走しました。
作中の歌は、万葉集の一句です。文学的素養のない私ですが、これだけは、瞬間的によしけま変換してしまったのでした(作者に謝れ)

それでは、読んで頂いた皆様、
年内→良いお年を。
新年→明けましておめでとうございます。

2009年は特に後半がかなり亀更新となってしまい悔やむ事は山ほどですが、訪れてくださった皆様のおかげで幸せを頂きました。 
2010年もこんな管理人ですが、135°とぐりをよろしくお願いいたします。
少しでも頂いた幸せをお返しできるように、がんばりたいと思います。
 
 
135°管理人 ぐり