立待月

 

 

「留」

長屋の中庭を歩いていたら、涼やかな声が風に乗って届いた。

「なんだ?」

顔だけではなく身体ごと振り返って返事をすると、相手は酷く嬉しそうにする。たったコレだけの事なのに、何がそんなに嬉しいのかといつも思うのだが。
それでも、普段はあまり動かぬ表情がそんな些細な事で綻ぶのを見るのは嫌いじゃないから、そうするのが癖になってしまった。

「今、ちょっといいか?」

留三郎を呼び止めた相手、仙蔵は言葉少なにそれだけを言う。

「あ、今から倉庫に向かうところだったんだが」

何か火急の用事だろうかと、眉を寄せて言葉を濁す。用件しだいではこちらを後回しにしても良いのだと匂わせながら。
そういう事ができる程度には、仙蔵が言う事には何かしらの意味があり無駄な事は言わないだろうと信頼をしている。

「時間がかかるか?」

「いや、すぐに終わる」

「では終わるまで待っていよう。ここに居るから用が済んだら戻ってきてくれ」

「そうか、悪いな。なるべく急ぐよ」

「私の事は気にせずともいい。それよりもやる事を終えてしまえ」

そうだな、と笑って留三郎は当初の目的地へと足を進めた。その歩調が声をかける前よりも若干速くなっている事に気が付いた仙蔵は目だけで少し微笑んだ。

 

歩き出した留三郎は先ほどの仙蔵の物言いを気に病むことはない。聞きようによっては邪険とも思えるあれは仙蔵なりの気遣いだ。自分の事を気にしてすべき事をおろそかにして欲しくはないのだと。尤も口では、中途半端な事をして結局気もそぞろで来られるより、瑣末ごとはすべて終えて来いなどと高慢な事を言うのだが。
しかし、留三郎に元よりそんなつもりはなかった。仙蔵に告げたことはないが留三郎が彼を優先するために他の事をおろそかにした事はない。彼がそれを喜ばぬ事は知っているし、何よりも己にも仙蔵にも恥じる事はしたくないのだ。
彼の隣にいるために、そうありたいと強く願っている。
とは言え、この度の用事は本当に些細な事でたいした時間もかからぬはずだ。ならば、作業以外のところで少しくらい時間短縮を図ってもいいだろう。
角を一つ曲がって、仙蔵の視線が途切れたところで、留三郎は一気に走り出す。目の前から走り出さなかったのはせめてもの衿持ちだ。
しかし、その前から若干早足になっていた事を見抜かれていたことにはまったく気がついては居なかったが。

 

ともあれ、倉庫での用事を手早くしかし正確に終わらせて、留三郎は先程の場所へと急ぐ。たいした時間は経っては居ないが、やはり待たせているというのは気がはやる。
最後の角を一つ曲がれば、もう約束した場所だ。
壁の向こうに、仙蔵の姿が現れる。しかし予想外のその姿に思わず足を止めかけ、その気配を察したのか仙蔵が振り返った。

「ああ、用事は終わったのか?」

さらりと長い髪をなびかせて薄く笑う。

「あ、ああ」

改めてまた歩を進め、仙蔵の傍へと立つ。そう、仙蔵座る事もせずにその場に立ち尽くして待っていたのだ。
そう時間はかからないと言ったが、それでも確約したものでもない。第一すぐ後ろが廊下である。そこに腰を下ろして待って居るのが普通だろう。それなのに、仙蔵は先程と寸分たがわぬ場所にじっと立っていたのだった。

「座って待ってりゃ良かったのに」

「いや、座る程の時間でもないだろう」

「そんな事分からないだろ」

「ふっ。お前が時間がかからんと言ったんだ。ならば本当に時間はかからぬだろうと座る気もおきなかっただけの事」

当たり前のようにそんな事を言われて。

「俺は、お前のその信頼に足るのか?」

「何を当たり前のことを」

つい、不安が口からこぼれれば、なんの気負いも躊躇いもなく即答。

ならば、その仙蔵の言葉を信頼する事にしよう。これからも己にも仙蔵にも恥じる事のない、信頼に足る者でいられるように。

「ところで、一体何の用だ?」

「ああ、今宵は立待の月が昇るからな。共に並んで眺めようかと思ってな」

言われて空を仰げば、丁度山の端から月が昇ろうとしている所だった。

「おお、正に丁度いい。ははは、留三郎を待つのは月を待つのと同じようなものか」

十五夜、十六夜に続く月は、僅かに遅くなるもののほんの僅かな時の差で昇ってくる。座るまでもなく立って待つ月、立待月。

月に例えるのならば、己のほうがよほどしっくり来るくせに何を言うかと留三郎は心の内で毒ついた。口に出そうものなら何を言われ返されるかわからないのであくまでも心の内で。どうせ歯の浮くような台詞を恥ずかしげもなくぬかすに違いない。
見る間に月はその光を強くして、やがて山から完全に顔を出す。まだまだ明るい月明かりに照らされた仙蔵をちらりと留三郎は盗み見た。
立待月をその名の通りの姿勢で眺める仙蔵。その立ち姿は凛として美しい。
擬音にするなら、すっとした、それで居て隙のないまるで抜き身の刀のような仙蔵の立ち姿が実はかなり好きだった。
立待の月と仙蔵の立ち姿。まるで一枚の絵巻のようだと思う。このまま掛け軸にでもしてとどめておきたいような。

隣で、まったく同じ事を仙蔵もまた思っていることを留三郎はまだ知らない。
すらりとした鋼のような立ち姿で月に照らされる留三郎を見たいがために、立待の月見を誘ったなどと。

 

月の光を弾いて立つ二人の姿を、目に留める者があったならば。

その風景をとどめておきたいと願ったであろうが、幸か不幸かそれを目撃した者はなく。

ただ、立待の月だけがその権利を与えられたのであった。

 

 

  


立待月=仙食満

個人的にこの二人の立ち姿はきっと美しいと思う。つま先から頭の先まで。